銀行業務の原則の一つに、「現金その場限り」というものがあります。これは文字通り、現金の授受はその場で関係者全員が確認する。後で「多い」「少ない」と言っても駄目。という当たり前のような原則です。
銀行員なら誰でも耳にタコができるくらい言われます。実際に仕事をしていると、この原則が身に染みる場面が多々有ります。銀行はお金と縁が切れませんので、時代を超えての原則と言えます。今回はこの「現金その場限り」を、違ったニュアンスで実感したお話しです。
時は今から30年ほど前、バブル景気華やかなりし頃です。お取引先のデベロッパーが、総額60億円で宅地開発を行いました。ほぼ全額を銀行借入で賄った上で、開発後の商業ビル売却で一括返済。こんなスキームの話です。
その当時既にバブル崩壊の懸念が出ていた時期でもあり、銀行としても複数行で協融体制を取ってリスク分散を図りました。さていよいよ売買取引と融資実行という段階になったとき、このデベロッパーから珍しい依頼がありました。それは取引当日に現金で3億円用意して欲しいというのです。
売買当日に手数料名目で、現金が授受されるのは良く目にします。しかし3億円というのは総額が60億円とはいえ大きな金額です。事情を聞くと売主側からのたっての依頼のようです。そこで現金は当日取引時間に間に合うように手配しました。不動産売買では銀行が融資をして担保を設定するため、取引場所が銀行の応接室になる事があります。今回は参加人数が20人を超えそうだとの情報で、店の会議室を用意しました。
現金はそこに持ち込むことになりました。売買当事者が全員揃ったところで、銀行依頼の司法書士が所有権の移転登記と、抵当権の設定登記書類の完備を確認しました。ここでデベロッパーに対し融資金が交付されます。と同時に現金も受渡がされました。私と言えば当日はヘルプで隣の部屋に控えていたのですが、チラ見したところ用意された現金は日銀封のものでした。
少し説明すると、日銀封とは日銀が同一金種を100枚ごとに数えて、束にしたものをさらに10束まとめたものです。普段見る機会は全くないと思いますが、大変に信用力あるものなので、我々も日銀封緘印があるものは、まき直しをせず使っていました。一方他行封緘の束はそのままとは行きませんので、すべて数え直して自行の封緘印を押していました。これをまき直しと呼んで正直大変な作業で、窓口担当の悩みの種でした。
さてこの日銀封の現金がどうなったのか。この後は売主側に渡ったのは間違いないのですが、銀行担当者は席を外して欲しいとの依頼だったので、詳しくは分りませんでした。しかし小一時間が経過して20人ほどいた関係者が、三々五々紙袋を大事に抱えて会議室から出てきました。入れ替わりに入ってみると現金は綺麗になくなっており、大封紙(おおぶうし)と呼んでいた日銀封緘印のある、札束を結束していた紙だけが机の上に残されていました。
文字通り現金その場限りだったのです。3億円という一生涯かけてもお目にかかれないような現金でも、20人が相手では小脇に抱えられる程度になるのか。そんな不思議な感覚を持ってしまいました。
参考サイト: 銀行見学 | 商業科(課題研究) | 一般社団法人 全国銀行協会
https://www.zenginkyo.or.jp/education/support/support03/sakaidesho-h/shogyo/report02/
2021/10/24